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2007年 01月 14日
2007年 01月 07日
カンタベリーからドーバーへ イギリスで一番大きな教会、カンタベリー大聖堂の町 2007年 01月 01日
2006年 12月 30日
‘もぎけん’と名付けた会をはじめたのも
もうすぐ1年前になろうとしています。 2006年3月3日 茂木健一郎さんが56回目の小布施ッションに ゲストスピーカーとして来てくださった。 それにあわせて脳科学者の本を読んだのは 1月中旬だったように記憶している。 読んだのは「脳と仮想」 脳と仮想茂木 健一郎 / 新潮社 スコア選択: ★★★★ 茂木健一郎の本 装丁も素晴らしい 茂木健一郎の本に魅了されたのはどうしてだろうという思いが いつもいつも頭の中にあった。 何となく言い様のない違和感を感じていたもう一つの“脳”に 関するもの。養老孟司のテクストから感じていた違和感を 払拭されたように感じたからかもしれない。 しかし、おそらく違うだろう。養老孟司がどうであろうと 自分自身の生きる道にどれほどの影響があるとは思えない。 けれども、養老孟司のそれには奥底に冷ややかなものが 秘められているような気がしてならなかった。 茂木さんにはそれがなかったのかもしれない。 「クオリア日記」に気になる一節がある。 現代において、明示的な意味で膨大にひろがった世界中の知はたとえ、googleで検索可能だとしても ひとりの人間に背負いきれるものではない。 世界を引き受けるには“感情”の部分でやるしかないと。 ぼくの29年目の人生の中で どれほどの感情を引き受けようとしてきたか はなはだなぞだ。 自分の見たい道をいつもいつも見てはいなかったか。 そこは、自分を守るためであったり 世の中の閉塞感のなかでうごめく結果であったかもしれない。 自分自身に対する不安 経済活動を中心とした社会 利益をあげることで社会を豊かに幸福にしようとする企業 なぜだろう、全てがいやだった。 空想は空高く飛び上がり、おいていかれた自分自身の 肉体は疲弊し、言うことを聞いてくれない。 全てを飛び越えて行ける魔法や奇跡など どこにもなかったのだ。 そんなものを夢見る少年の心は忘れたくないけれども。 空に飛び上がることのできない自分自身を 引き受けて行かなければならない。 世界を引き受けて行く前に。 自分で歩きたい道を作ろう。 一緒に歩いてくれる人が歩きやすいように。 自分だけで、空を飛んで行くことなどできないのだ。 道を作りながら歩きたい。 だれかがその後を歩けるように。
2006年 12月 29日
4回目の‘もぎけん’を開催します。
どなたでもこぞってご参加ください。 第4回‘もぎけん’ 日時:2007年1月5日(金) 時間:19:30~21:30 場所:長野県小布施町 寄り付き料理 蔵部 テーマ1: 「時間と効率について」 仕事というものに携わる限り、時間と効率は 逃れようのない要因であるだろう。 世にあまたのビジネス書が溢れ、このテーマについて 語ろうとする時、逃れたいと願いながらも適わず 向き合わなければならない自己を発見する。 そこに焦点を当ててみる時、個々人の中に立ち上がり また、選びゆく道はどこへ行くのだろうか。 テーマ2: 「山本的なるものの価値−哲学的、科学的見地からの考察」 時間と場所を共有しながら生きる人間の価値について うんぬんすることは、私たちにとってひどく大それたことのようにも 感じられる。 結論を結べば、それは私たちの内面たる心が それを喜んでいるという事実以外にはありえないに違いない。 では、さらに踏み込むならば、喜ぶとは何を生み出すのか。
2006年 12月 28日
内田樹という方の名前を聞いたのは
養老孟司の書いた記事が最初だった。 「私家版・ユダヤ文化論」という一冊の新書についての 養老孟司のレビューであったように思う。 私家版・ユダヤ文化論内田 樹 / / 文藝春秋 スコア選択: ★★★ なぜユダヤは迫害されるのかという問いに真摯に向きあったもの。悲惨で恐ろしくもあるが、気にせずにはいられないユダヤについての文化論 内田樹のブログで見つけたものを引用してみる。 内田樹の研究室:創造的労働者の悲哀 しかし、残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。 労働について、働くということについて誰でも幾度となく 思いを巡らせるに違いない。 時がよどみなく流れて行く限り、ただ一人残されて行くことはできない。 この記事を読んで感じたのは 「ならぬものはならぬ」と強く言い切ることのできない 大人たちが変わらねばならないと思う。自分も含めて。 権利ばかりを思い描き、なすべき義務をおざなりにしている この記事で問題にされている所謂若い人間たちをほったらかしにしてきた ことこそが、問題にされるべきだろう。 ダメなものはダメなのであって、何かによって引き上げねばならない。 世の中のニートに対する論調はとかく自由が問題にされがちではないかと思う。 けれども、個人的には、それは現実問題としての解決の視点かもしれないが 働くということは、労働に限らないということを如何に学ぶかが重要ではないか。 政治や経済といった、可視的で計量可能なものに捕らわれては 世界を背負うことなどできない。 2006年 12月 27日
長い電車に揺られる時間、一冊の本を読んだ。
この本を最初に見かけたのはどこだろう。 何かの書評だったような記憶が頭の片隅にある。 誰の書いたものだろう。インタビューかもしれない。 長野に帰るまで4時間、ページをめくるたびに 登場する人の心が押し寄せてくる。 最愛の息子を殺された家族の心情と葛藤があふれてくる。 ここの登場する母親はすでに70歳をこえ 父親は世を去った。50歳近い妹。 この人たちにとっても、それは到底受け入れることなどかなわない まるで映画のひとシーンのような出来事であったに違いない。 そこに登場するもう一人の恨むべき加害者 今はすでに少年法の庇護のもと 犯罪歴さえも持たない一般市民として 弁護士という人もうらやむ職業に就いている。 憎まずにはおかない相手さえも憎もうと思うことのできない苦しみ。 世界中の知を全てかき集めてきても 解決することなど、絶対にかなわない。 社会の中で、計測可能な物差しを用いて 定められた法律や経済というシステム。 ここにいる人たちの、今目の前にいる人たちの その心を、どうやって背負えばいいのだろう。 傷ついた人々の心の中に、ズケズケと踏み込んで行かなければ 真実には、その人を振り向かせることはできない。 この作者もどれほど苦しみを共有して ここまで来たのだろう。 心にナイフをしのばせて奥野 修司 / / 文藝春秋 スコア選択: ★★★★★ 世の中にあまたある事件事故の一番の被害者は誰なのだろう。 目に見えたり、計測可能なものだけを基準にせざるを得ない法律などどこまで役に立つのだろうか。 2006年 12月 26日
屋根を越えるとそこには何が見えるのだろう。
うちは川沿いから村で一番高い場所にある お寺に向かって上がったところにある。 2階の窓からは屋根が見える。 ずうっと屋根が続くように見える。 子どものころは、よく屋根の上にあがった。 ここよりももっと高いところから 今度は川が見え、たんぼがずうっと続いているのが見える。 川をこえたところに小学校があった。 たぶん、一生忘れないだろう。 原風景っていうのは、きっと、こういうものだろう。 晴れた日の屋根は少し暑かった。 でも、最高に気持ちよかった気がする。 そのころ、カメラを持っていたらどんなものが写っただろう。 今日はこのちょっと寂しげな色合いの写真がとても気に入った。 あしたは、少しあたたかいほうがいいだろうか。 ![]() # by kemplebar | 2006-12-26 01:09
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